俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

ハウステンボス・長崎旅行【3日目、帰京】

昨日に引き続き、長崎です。といっても今日帰りますけどね。
月曜ですが、会社は遅い夏休みを1日取得しました。ワーイ!

7:00過ぎ 起床
8:00〜 朝食バイキング
9:50頃〜 浦上散策 (平和公園浦上天主堂〜爆心地〜長崎原爆資料館)
11:20〜 眼鏡橋周辺
12:00〜 昼食(料亭「一力」)
13:00〜 興福寺 (唐寺) 〜眼鏡橋より一本裏通りの「長崎龍馬の道」をぶらぶら歩き

ホテルに戻って荷物を引き取り、空港へ
長崎駅14:55〜長崎空港15:39(高速バス)
・長崎16:50〜羽田18:25(JAL 614便)

今日も朝食バイキングです。贅沢だな〜。ベストウェスタンプレミアホテル長崎に宿泊しましたが、朝食会場が高層階で、長崎の町並みを楽しめました。
今日の行程は、浦上地区を散策後、眼鏡橋を見て、お昼にミニ卓袱(しっぽく)料理を頂きます。母が「平和公園は広い、1時間は回った」と言うので、「じゃあ平和公園だけで、浦上天主堂は見られたら」程度で考えていたわけですよ。

平和公園では、小学生の皆さんが平和学習中でした。小学生から中高生の修学旅行とおぼしき子たちや観光客が、ひっきりなしに来ます。
あとね……平和公園、小さいよ? 15分もあれば回れるわよ? 母は「あらっ、広島の平和公園と間違えちゃったかしら」そうだね、広島は広いよね!(張りついた笑顔で)
平和の像の裏手に、浦上天主堂を望むスポットがありました。

意外と近い? 写真を撮っていたら、地元の方が「ここを下ってドウコウ行くと浦上天主堂、さらにドウコウすると永井隆記念館に行けますよ」と、親切に教えてくださいました。この場面以外でも、長崎の人はみな親切で、気持ちよく道を教えてくれましたね。
ちなみに「永井隆」さんは、自身も被爆しながら周りの患者を救護した医師で、『長崎の鐘』の著者です。浦上という土地柄か、なにかとここでは「永井先生」の名前が出てきました。

再建された浦上天主堂には、原爆遺構が何点も保存されていました。2枚目の写真は浦上天主堂の原爆遺構で、3枚目は、原爆の爆風や閃光で吹き飛ばされた石像たちです。

永井隆記念館まで回ると、ちょっと母の足もとが厳しいのでゴメンナサイ。そのまま、爆心地までぶらぶら歩きます。このへんの道は生活道路で、ご近所をお散歩している気分。地元のスーパー、楽しかった! 野菜は関東と変わらなかったけれど、ちゃんぽんやアゴ出汁が売られていたのが長崎っぽいね。
浦上地区は勾配がゆるやかで、かなり歩きやすかったです。長崎ではかなり平地っぽい。だからこの一帯が一番原爆の被害を受けたんだなあ……(他の地区は、山に遮られて被爆が少なかった)。
爆心地は公園になっており、隣が長崎原爆資料館でした。修学旅行生や外国の方がたくさん来ていました。お疲れちゃんの母は公園で待っている、というので私だけ原爆資料館を拝観。ここでも永井隆医師の紹介が一劃を占めており、地元出身ということもあるでしょうけれども、浦上の心情を垣間みた気がします。
ところで、浦上は歴史的にクリスチャンが多い土地柄だそうで、道を歩いていると、所々に「浦上○番崩れ」の立て札がありました。「崩れ」というのは、江戸時代のキリシタン弾圧で捕まった信者たちの事件を指します。浦上では一番から四番まであり、つまり4回信者たちが捕まったということですね。四番崩れは幕末明治で、一村総流罪、苛烈な拷問をされています。信教の自由のある今は、全き平和とは言えなくとも、いい時代ですよ……。

浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧 (ちくま文庫)

浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧 (ちくま文庫)



浦上をたっぷり1時間ほど散策したあとは、路面電車に乗って眼鏡橋へ。

日本最古のアーチ型石橋です。寛永11 (1634)年、興福寺の黙子如定禅師のもと作られた橋だとか。きれいですね〜。
眼鏡橋から諏訪小学校を抜け、寺町通りへ出ます。諏訪小学校では、小学生たちが「長崎くんち」の練習をしていました。伝統芸能の伝承ですね!
寺町は、名前の通り、寺が点在しています。江戸期、「キリシタンはいませんよ」というアッピールのためだとか。ここで、龍馬も来たという料亭「一力」でお昼なのです。

長崎の祝い会席である「卓袱(しっぽく)料理」というのを食べたくてですね……、でも高ッかいんですよ! お目当ての店が予約できず、「一力」の「姫重しっぽく」に落ち着きました。定番デザートのお汁粉はナシだけど、二千円台だからしかたないね。あ、他の料亭の卓袱ランチだと、五千円とか一万円とかです。

少なく見えて、意外とお腹にたまる姫重しっぽくでした。ごちそうさま!
腹ごなしに、寺町通りにある興福寺 (唐寺眼鏡橋を作った禅師がいた寺) を拝観。


こちらも唐寺で、国内最初の黄檗禅宗 (おうばくぜんしゅう) のお寺さんです。日本黄檗宗の開祖、隠元禅師も1年滞在した寺で、隠元禅師が中国から渡来した際に日本へ伝えたのが「いんげん豆」なんですって。
昨日の崇福寺も静かでよかったですけど、こちらも風情がありました。崇福寺が福州人の寺なら、こちらは江蘇、浙江、江西の「三江」の寺。
写真を斜めに撮ったので分かりにくいですが、3枚目の写真は氷裂式組子の丸窓とアーチ型の黄檗天井です。天井が弧を描いているのが、お寺の建築では珍しいですね。また、4〜5枚目の写真は、こちらも珍しい雌雄の木魚です。ふつうは一匹だけですもんね〜。


本当は眼鏡橋まで戻って、路面電車で早めに帰るつもりでしたけれど、眼鏡橋より一筋奥まった道が、なんとなしによさげだったので、ぶらぶらお買い物。
「長崎龍馬の道」という、諏訪神社前の新大工町からグラバー園のある南山手町まで続く約3kmの一本道だそうで、飲食店や土産もの、八百屋や花屋など、観光向けと地元向けが渾然一体となった通りでした。こちらも、偶然にしては楽しい道筋となりました。でも、3kmも歩きませんでしたけどね(笑)。
ほどよい所で抜けて、路面電車でホテルまで戻り、荷物を引き取ってから駅前へ。土産物屋を冷やかしてから、長崎空港行きの高速バスに乗りました。

会社等への土産ものは、空港で調達。だいたいのが揃ってます。出発まで1時間半近くあるから、ゆっくりコーヒーでも飲もうね、と言っていたのに、もう時間が……。空港内のスタバで、お持ち帰りコーヒーにして、搭乗口で飲んでました。
行きは無理だったけれど、帰りは窓際の席が取れたので、長崎の夜景を見ながら離陸。母が「飛行機の窓際なんて久しぶり」と喜んでいたので、よかったです。羽田に着いて、少し早いけれども、夕飯にカレーライスを食べて、人心地つけてから帰宅。母は東京上野ラインのため、新橋で別れました。帰宅ラッシュ時だけど、東京で座れたそうです。よかったよかった。