俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

もうすぐ立春

寒い寒い。でも昨日からの雨があがり、水分を含んだ大気がやさしい。湿気があると、ほんのり寒さがやわらぐ気がするね。雨あがりの濡れた道を歩いて、趣味の講座へ行く。

ところで、わたくしは実に散文的な人間だ。詩とか詩人とか、よくわからんので遠巻きに見るような感じ。どちらも付き合うのが難しそうな、面倒くさそうなイメージが先に立ってしまう。
でも、たまに出会うといいものですね。いいものはいい、と言うべきか。日野草城(明治34〜昭和31)の俳句です。

春暁や人こそ知らね樹々の雨
春の夜やレモンに触るる鼻の先
水の女に灯す簾越し
舌に載せてさくらんぼうを愛しけり
たわぶれに妻を背負ひぬ秋の暮
冬ざれのくちびるを吸ふ別れかな
冬の陽や枯木の中の竹二本
――日野草城 第一句集『花氷』(昭和2)

色っぽい句が多くなってしまった。写真と一緒で、瞬間の切り取りかたがいい。わずか17字の余韻。

上に挙げた句集の序も、高浜虚子をはじめ華やかな顔ぶれで、時代を感じさせる文章である。

 大正九年九月も末の日曜の午後、すらりと丈高い、眉目秀麗の三高生が、袴をきちんとつけて訪問した。見るから草城君だと思ったら、果してさうであつた。……門を出ると月は東山をはなれたばかりで、草城二葉の二君は若やかに三高の校歌を高唱して帰つた。それから君は足繁く通つた。(中略)
 私は思はず君を過去の人にしようとした。京大卒業後大阪に於ける劇務は、君を思ふがまま思索の人とする事を肯んじないのであらう。又誰人にも句作に冷熱のある事は免れない所以もあらう。それで天賦の才藻は隠すべくもなく依然として豊かなるも如何せん昔日の如き熱がない。しかし決して過去の人ではない自ら名のらるるが如く世紀の子である。……君の詩魂を養つた京都時代をよく知る一人として、序を徴されしに甘えて、忌憚なき一言を呈する所以である。

草城と一緒に京大三高俳句会を作った、鈴木野風呂の序文。定型文のようではあるが端正だ。青年期をともに過ごした人物だけあって、文章に熱がある。今、「眉目秀麗」「紅顔の美少年」など、ここまですらりと書けないだろうなあ。