俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

長谷川一夫と衣笠貞之助(2)

今日のは昨日のおまけみたいなものです。長谷川一夫と衣笠監督について、ネット検索した余禄。
まずは長谷川一夫の経歴から。

長谷川一夫明治41年(1908年)京都市伏見区の造り酒屋に生まれた。すぐ近くに芝居小屋があって、叔父が経営していたからチョクチョク行っていて芝居大好き人間になってしまう。ある日その芝居の一座の子役がアクシデントで出られない。困っていた時、そうだいつも一番前で観ているあの子なら吃度できるよと勝手に決めて叔父(小屋主)さんに交渉。本人は言われて嬉しくて出たらこれがバカウケ。評判の芝居を観に来たお母さんが目の前で芝居している我が子にビックリ仰天 最初は猛反対だったが、いつしか自分の方がノリノリ。遂に初代中村鴈治郎に弟子入り*1して林長丸という芸名をもらった。
――「美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫」(「石のコロンブス」HPより「青空うれしの墓を訪ねて3000キロ」内)

一方、衣笠貞之助監督は、煙草屋の息子であった。歌舞伎・新派好きの母の影響か、芝居が好きでその道を志すが、家族の反対にあい家出。旅回り一座に飛び込み、劇団をかわりながら女形として舞台に立っているところをスカウトされ、日活向島撮影所に入社、「衣笠貞之助」の芸名で専属俳優となった。
衣笠が監督に転身したのは「映画界が女優を起用し始め、女形が不要になってきた」のが一因だという (Wikipedia「衣笠貞之助」)。つまり、初期の日本映画は女優がおらず、まるっきり歌舞伎方式だったのね。
また、長谷川一夫衣笠貞之助は、ともに歌舞伎役者出身ではあるけれど、いわゆる梨園の御曹司ではない。阪東妻三郎も木綿問屋の次男坊で、芝居の道に足を踏み入れたのは、国民学校高等科を卒業してからだ。当時、芝居といえば歌舞伎と新派*2くらい。歌舞伎の主役級は名門筋のやるもので、一般人あがりの役者には手が出なかった。そこで、活路を求めて映画界に進出したのだろう。

……家柄なしで、ただ芝居が好きでたまらないというだけで、一般社会から弟子入りしてきた役者たちは、脇役として名人上手になることはできるし、以前なら小劇団の座長になっていわゆる小芝居で主役をはることもできたが、檜舞台と呼ばれる大都市の一流劇場で主役や準主役をやることはできなかったのである。
 戦前に歌舞伎から映画にやってきた俳優たちというのは、舞台では美貌や演技力で注目されても、家柄のバックがないために檜舞台のスターにはなれないと見極めをつけた人びとであり、新天地開拓の意気に燃えて映画にやってきたのである。
――佐藤忠男著『映画俳優』より(「花も実もある錦かな」HPより「評論集」内)

上記引用の佐藤忠男氏は「戦前からの時代劇スターたちと、戦後の時代劇スターたちとでは、同じように歌舞伎の出身とは言っても、ひとつ重要な違いがある」と言い、戦前の名門の役者は、映画など軽蔑して出ること少なかったが、戦後、映画の地位も向上し「戦前なら映画になど見向きもしなかった歌舞伎の名門の御曹司たちが、時代劇映画に最初からスターとして迎えられては入ってくるようになった」。この項に関しては、紙幅もないので紹介するにとどめておく。

*1:Wikipediaによれば、中村鴈治郎ではなく、その息子・林長三郎(のち又一郎)の一座に加わったようだ。

*2:新派=歌舞伎を旧派とし、みずからを新派劇と呼んだ演劇集団のこと。水谷八重子のいるところ。くわしくは、新派関係者の方が作成された、以下の紹介ページをご覧ください。
http://tudumi-taikold.hp.infoseek.co.jp/shinnpatoha.htm