俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

見廻組と新選組(2)

そもそも、佐々木只三郎のことが書きたくて、この稿をおこしたのだった。
佐々木只三郎 (たださぶろう)。「唯三郎」とも書く。現在の大河「新選組!」に出てくる、見廻組の与頭である。見廻組のトップである組頭は、大名の蒔田相模守(1万石)だったが、これは名目上のことで、実際に指揮をとっていたのは佐々木であった。
佐々木只三郎は旗本ではあるが、本来は会津藩士の出である。会津藩・佐々木家に生まれた。長兄の直右衛門は、父親の実家である会津藩家老職の手代木(てしろぎ)家を継ぎ、次兄の主馬が家を継いだ。三男の只三郎は江戸の縁戚・佐々木家の養子となった。陪臣の家から旗本の家を継ぐのは、あまり例がなかったようだ。会津藩はもともと将軍に忠実なお家柄*1でもあり、只三郎は自分が直参になったことにより、よりいっそうのご奉公を誓ったのではあるまいか。

とはいえ、大方の旗本子弟は、そのようなきびしい思想下に育っていない。見廻組入隊を希望する子弟が少ないため、末期にはだいぶ浪人を召募したようだ。
そのような状態であるから、隊士400人といっても、その質は新選組にくらべて落ちた。見廻組で有名なのは、竜馬暗殺であるが、佐々木みずからが陣頭指揮をとり、暗殺を実行したようだ。「ようだ」というのは、竜馬暗殺犯については、諸説あるからである。が、ここでは見廻組説を採る。佐々木は小太刀をとってはかなう者なし、と言われるほどの手だれであった。

鳥羽伏見で被弾した佐々木は、妻の実家のある紀州へ落ちのび、そこで傷が癒えずに死んだ。大阪を出るときの配下は200人ほどだったが、紀三井寺で療養する頃には20人に減った。亡くなる前、佐々木は回向料として100両を従者に渡したが、従者たちはその金を賭博、酒色にほとんど遣いはたした。みかねた僧侶がお金を集め、供養をしたという。
佐々木の墓は長らく最期の地・紀三井寺にあったが、今は会津に返され、故郷に眠っている。

*1:会津藩の祖、保科正之徳川家光の異母弟。彼は会津藩に「家訓 (かきん)」十五条を定め、その一に“将軍のこと、一心に大切にせよ。将軍に二心抱くものあらば、その者は我が子孫ではない。藩士はそのような藩主に決して従ってはならない”とした。