俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

見廻組と新選組(1)

まず、構成員に着目したい。
新選組と見廻組、どちらも“不逞浪士”から京の治安をまもる非常警察機構で、見廻組はあと出来。新選組が浪士集団であるのに対し、見廻組は直参の次男・三男坊の集まりだった。「直参」とはその名の通り、将軍直属の幕臣である。
いわゆる「藩」の大名とのちがいは、知行高である。1万石以上が大名、未満が直参。直参の中でも、将軍にお目見得(拝謁)できる、二百石以上の者を「旗本」と呼んだ。お目見得できないのは「御家人」という。大身の旗本は、小大名より裕福であるが (参勤交代もないし、格式ばらずにすむ)、小身の旗本・御家人は汲々とした生活を送っていた。
が、武士は食わねど高楊枝。内職をし、そのあがりを店に納めるのに外聞をはばかり、夜間こっそりと忍んだ。頬被りし、腰の脇差しを隠して「○○はよいか、○○はよいか」と店先で呼ばわる。表面上、売り手の方がえらそうなんである。侍(士)が内職で家計を補う際、百姓(農)と職人(工)のまねは許されても、商売(商)は許されなかった。傘張り、桶作りなどはOKでも、それを売り歩くことはできないんである。 武家は商売をしてはならんのだ。そうした貧乏生活を支えるのは、「将軍直属」の「侍」であるという矜持だった。昭和初期の感覚でいえば、天皇直属の近衛師団、ご親兵といった意識の高さであろうか。

「直参」のプライドは、吹けば飛ぶよな御家人でも、大藩の家老より身分は上、という論理を生み出す。なぜなら家老(藩士)は、将軍と直で結ばれていない。大名を通じての間接的な家臣――「陪臣」「またもの」になるからだ。大河で、佐久間象山が将軍家に招かれたが、幕内で「松代藩士の陪臣に教えを請うなぞ」という声もあった、という件りがあるが、天下の佐久間象山を「陪臣」のひとことで片づけるほど、身分意識は強かったのだろう。
しかし、学問をしっかりおさめているのは“陪臣”の方が多かった。各藩には「藩校」があり、勉学の基礎がととのっていたが、直参たちには、そうした仕組みの学校はなく、漢字もろくに書けない者が多かった。そこそこの暮しができる旗本子弟たちは、勉強しなくとも食っていけるし、腕を鍛える必要もない。危機意識のうすい、のらくら者が多かったのではないか。せいぜい一、二代前に、士分になった勝海舟榎本武揚といった人物が、幕臣として名高いのは面白い。ついでにいえば、彰義隊を結成した渋沢成一郎 (渋沢栄一の従兄弟)、天野八郎は生れながらの武士ではなく、農民の出であった。