王城と論語の話
実感はわかないながらも、仕事納めのあとは怒濤の年末。2009年が、あと3日しかないよ!
洗濯、DVDレコーダー整理、水回りの掃除。重曹って便利だねえ。使い方を友達のブログで見て買った本、重宝しております。実家に電話して帰省予定を伝えたら、姪がおたふく風邪になったことを聞かされる。今はあまり、副作用を敬遠してか、園や学校側で予防接種はしない傾向のようですね。私が小さい頃は3種混合・5種混合とか、けっこう打たされたけれど、それでもやっぱり、幼稚園のときにおたふく風邪にかかったなあ。兄の携帯へ「お大事に」とメールを打ったら、「本人は元気ですありがとう」と返事。よかったよかった。
本屋で、青池保子『アルカサル-王城-』文庫版・第1巻を買う。14世紀の、統一前のスペイン、カスティーリャ王ドン・ペドロを描いた一大叙事詩です。アルカサルは王城の意で、カスティーリャの国章である「王城と獅子」の片方であり、また、ドン・ペドロが愛したセビリャの城をも指します。私、スペイン大好きなんですよ! イスラムとキリスト教の混淆した文化が、非常に魅力的ですよね。中学高校とクラシック・ギターをやっていたので、大学卒業旅行で迷わず選びました。そのとき1回だけの旅行だったけれど、セビリャも行きましたよ〜。そのときはこの漫画を知らず、「ここが『セビリアの理髪師』の地か」程度の感慨でした。もっとお城をちゃんと見ておけばよかった。
- 作者: 青池保子
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 2008/07/10
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さて、もう1本。こちらは先日読んだ、吉川幸次郎『「論語」の話』。
- 作者: 吉川幸次郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/01/09
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私は「論語」本体を読んだことがない。しかし孔子や論語の切れっぱしは、何度かかすめている。一番最初は、中高生時代の「漢文」授業でお目にかかったアレですね。“吾十有五而志于学” ――われ十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。とにかく、これがかっこよかった。この論語から、15歳が「志学」、30歳が「而立」、40歳が「不惑」という。私はずーっとこのことばが好きで、入社ぴちぴち社会人1年生のとき、会社のちょうど40歳の人に「では不惑ですね! もう惑わないなんて素敵です!」とかまし (まったく悪気はない)、「いや……40になっても迷うよ、若い頃と変わらないよ」と苦笑されたことがある。今になって、そのことばの重みがわかるのですが話が逸れました。論語に戻ります。
中島敦「弟子」(孔子の弟子・子路が主人公)、酒見賢一『陋巷に在り』(同じく弟子の、顔回が主人公。でも途中でダレて読まなくなっちゃった) なぞも読み、どうも「孔子」はただの聖人君子ではない、一筋縄ではいかない巨人らしい。しかし、論語の書き下し文や逐語訳を見ても、自分には理解できそうもない。と、そのままにしていたところに、吉川先生のご本を店頭で見かけたわけであります。
もとがNHKラジオの講座だけあって、本文は語り下ろし風。昔の人らしく、「少し説明を加えますならば」「というのであります」「申しますと」などと、丁寧語で全編通されています。エピソードや余話も交え、孔子の思想に迫っていく好著ですね。出典を知らなかっただけで、これも論語のことばだったのかと思うものが、吉川先生の講義中にたくさん出てきます。
で、結論。やはり孔子は巨人である。
政治も倫理も堕落した春秋時代 (秦の始皇帝より前)、「礼」「楽」「仁」に代表される理想の文治を求めて、時に迫害されながらも諸国を放浪した男。道徳めいたことを言うかと思えば、意外に苛烈、現実家でもある。なんとも不思議で、定規ではかれない人物なのだ。人間の暗黒面に絶望したところから、反対に善き「仁」を信じようとしたのではないかしら。
ちなみに「論語」は、孔子が書いたものではなく、孔子の言葉や問答を死後に編纂したものです。同じように、本人の著述ではないけれど、門人たちが思想を書き残した西の人物にソクラテスがいますね。思索を深めるほうに向かった哲学者ソクラテスに対して、孔子は自身の理想を現実に反映させようと奔走した、行動派といえましょう。本書ではソクラテスではなく、キリスト教の聖書と論語との差異が述べられています。確かに、政治にむかった点では、ソクラテスよりイエス・キリストですよね。
本書を読んで、漢字文化圏にはベトナムも入っていたことを思い起こした。現在は漢字が廃止されているが、ホー ・チ・ミンも論語を読んでいたという。歴史ってつながっているなあ。
そのときどきで心に残る文章はちがってくると思うが、今現在、印象深い論語の台詞をいくつかご紹介して、この項を閉じたく思います。書き下しは吉川先生の訳文、意訳はこちらでまとめたもの。
或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳。<或るひと曰わく、徳を以って怨みに報ゆるは、何如(いかん)、子(し)曰わく、何を以って徳に報いん、直きを以って怨みに報い、徳を以って徳に報いよ>
――悪意(怨)もて迫害する相手に、善意(徳)で報いよ、という人がいるが、どう思うか。孔子は答えた。(悪意にまで善意で報いるようなら) いったい、善意には何をもって応えればいいのか。悪意には正義(直)をもって対し、善意に対してこそ、善意で報いよ。
子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也。<子曰わく、其の鬼(き)に非ずして之れを祭るは、諂(へつら)いなり。義を見て為さざるは、勇無きなり>
――自分の先祖の神ではないのにお祭りする、淫祠邪教を祭る、それはへつらいである。自分がなすべき正しい事柄が目の前にあるのを見ながら、それでもやらないのは勇気の欠如だ。
(「勇」については別のところで、「仁者必勇、勇者不必有仁<仁者必ず勇有り、勇者は必ずしも仁有らず>」ともあります。人道主義者は勇気を秘めているが、ただ勇敢なだけの人間は、必ずしも人道主義者ではない。こうした但し書きが、いかにも論語ですね。)