俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

観劇2度目

蜉蝣峠」、2回目の観劇です。A席2階最後列。赤坂ACTシアターの2階席は勾配があり、最後列は、なかなか座高が高い感じだった。最後列のわりに見やすい席だと思うけれど、役者の微細な表情まではさすがに無理ですねえ。この劇場に関していえば、1階の最後列S席より、2階最後列A席のほうが、個人的にはお得な気がします (ここの1階最後列で見たことはないので、あくまでも予想)。
髪がぼっさーなので、切りに行きたいな〜。

新感線・いのうえ歌舞伎「蜉蝣峠」@2度目

3/28(土)18:00開演、於・赤坂ACTシアター。2階席最後列にして、2度目の観劇です。
初回と2度目とのちがい。初回よりも、話を受け入れることができた。というか、「新感線つーより、クドカンなんだよこれは」と、自分のなかの落としどころが決まったので、割り切って楽しめた、というほうが近いかな。そのへんは後回しにして、今回気がついたところ・思ったこと。
・闇太郎とお泪の結婚祝いに、「呪 ごけっこん」(「けっこん」は漢字だったかな? うろ覚え) の幟が立っていた
・闇太郎とお泪が最初に別れたのは、14歳と10歳のとき。それから25年て! 何度観てもツッコみたくなる箇所
クドカン、けっこうホラー入れるの好きだよね
・ウザイキモイのが光り輝いて場をさらっていく、魅力的な右近さんは久しぶり! 最近はただウザイだけで、むしろ「ジャマ」と思うことが多かったので、嬉しいです(さらっとひどいですね)
・勝地くんの成長がいちじるしい
・古田さんの闇太郎は思索的
クドカンは、やっぱり北の人だな(感覚的ですみません)
志賀直哉の「城の崎にて」を思い出す

こんなところだろうか。以下は「蜉蝣峠」ではなく、宮藤官九郎という脚本家に対する感想になりそうですが、気にせず書きます。
この舞台を観て、最初に思ったのは「まったくもって、クドカンだな」。id:orenade:20090314(初回感想)でも少し書いたけれど、TV・映画と舞台では、宮藤さんの書くものはちがう。映像では、商業的に配慮するのか、やっぱり口当たりのいい要素を仕込んであるものね。舞台に、その配慮は少ない。発注元の演出家・いのうえさんに「これこれこの要素を入れて」と言われたことを守りつつ、突っ放したダークさ全開です。
その他、クドカンぽいなーと思ったところ。
・しつこい下ネタ、スカトロ一歩手前
・コント
・バカップ
・家族愛(今回は姉弟
・上げて落とす、梯子をはずす感じ
・説明のないオチ(拾わない)
・説明のつかない不安感
・記号的
ほんっと、この人、チンコウンコ好きだよねー! いのうえさんも、真面目にリアルに作っちゃってたけど、最初のコントのあれは、鳥山明のアラレちゃんでよかったのに。堤さんがシャモリ先輩なんだから、古田さんはアラレちゃんか、志村けんの白鳥で十分な気がする。脚本のト書きが気になるなー、もともとリアルに作って、客を引かせる魂胆があったのかしら。うーん……それも有り得るな。
天晴とお寸の、強すぎる姉弟愛も、非常にクドカンらしい。宮藤さんの脚本には、よく「家族の結びつき」が出てくる。自覚的に一線を越えることは決してないけれど、無自覚にベタッとしてるのよねえ (古くは「IWGP」の長瀬と森下愛子、近くは「未来講師めぐる」の深キョン地井武男を見よ)。
天晴は、台詞からすると近親姦に近い感情を持っているようだが、台詞と実際の演じ手の温度差に違和感がある。だって、堤さんてば健全すぎて、匂わすセリフが浮いてるんだもん。私は常々「ゲイ役には向き不向き」があると信じているものだが、インセスト・タブーへの抵触も同じく、向き不向きがあると思う (誤解のないよう断っておくが、演じるのが似合う役者が実際にもそうだ、というのではない。そこが面白いところです)。クドカン自身も、実際の近親姦には興味ないんじゃないかなあ。

ならなぜ、そういう思わせぶりな台詞があるのかといえば、それは「記号だから」。なべてクドカンの脚本は、記号的だ。物語というより、設定なんだよね。だからベタな台詞が多いし、状況とそぐわなくても言わせちゃう。
たとえば、高岡早紀のお泪ちゃんが「あたしだってもう、昔のあたしのままじゃない」と捨て台詞をいうところ。当たり前じゃんアンタ、もう30半ばじゃん! そんな寝言は、高校デビューか大学デビューの年頃の女で、本厄・後厄もとっくに終わった大年増(江戸時代)の台詞じゃないよ。でも、言うんだなあこれが。また、お泪ちゃんが、過酷な運命と年齢のわりに少女めいたままなんだよね。「別れてから25年」は、リアルに考えちゃダメなんです。「二人が別れてから、長い年月が経ちました……」という意味の、記号的な設定と思わないと、やってらんない。
今回は、そういう記号台詞が多かったような気がする。「俺にはあんたしかいない」とか、「酒でも飲まないとやってられない」などと言われても、イマイチ伝わってこないのは、それがキャラをつくる記号にすぎないから。だから、台詞が浮いて聞こえたり、真情がつかめずに引っかかりを覚えるのだろう。反対に、記号的だからこそ、いろんな深読みができて面白くもあるんだけどね。役者や演出家がどのように解釈してみせるのかも、楽しみのひとつ。
長くなったので、本日はここまで。