俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

人魚の肉

ただいま隆慶一郎祭り、開催チウ。『影武者 徳川家康』文庫版3冊を、1週間に1冊ペースで読了、帰省中に『時代小説の愉しみ』を再読、さらに『花と火の帝』上下巻(後水尾帝の時代)を一気読みして、「未完だなんて!」と身悶え。

同じく、祭り開催チウの知人から『死ぬことと見つけたり』を拝借。そういえば、「葉隠」が海外でもブームになったことがあったね〜と、“死生観”について考える。“永遠”“不老不死”がいいものとは思わないが、なぜ海外ではもてはやされるんだろうという話。人工冬眠とかクローン技術とか、要は「永遠の生」でしょ。死ぬまで元気でいたいし、長生きして遊びたいけれども、不死への執着は特にない (今のところは)。
「人型ロボットの開発で日本は先進国だけれども、西洋では“人間に似せて作るのは、造物主に対する越権行為(涜神、と書きたかったけれど、略字しか出ないや)”で、イマイチ盛りあがらないそうですが」
「それじゃあ、クローン羊のドリーは? その方が越権行為では」西洋人の感覚はわからん。

東洋では不死の願いはないか、というとそうでもない。秦の始皇帝の、徐福伝説がありますな。始皇帝が不老不死の妙薬を探すよう、徐福を東の「蓬莱島」へやる話*1。日本の記紀にも、同様の薬「時じくの香(かぐ)の木の実」の逸話が出てきます。垂仁天皇の命で派遣された 田道間守(たじまもり)は、海の向こうの「常世の国」から木の実を持ち帰るが、すでに天皇は身まかられていた……と、やっぱり用をなさない。
面白いのは、日本は不死の薬を手にしても、それを活用しないのね。時じくの実は天皇の陵に植えられ、田道間守は悲嘆して儚くなる。「かぐや姫」でも、月に帰る姫は形見に不老不死の薬を残すが、帝は「姫がいない世の中なんて」と、薬を焼いてしまうのである! それも一番月に近い場所、日本最高峰の山の頂きで、と指示する細かさ。不死の薬が、ただの当てつけ道具になっているところがすごい。不死なんぞどうでもよくて、女がいなくなることの方が悲しいわけですよ。このめそめそ具合が、なんとも日本。
八百比丘尼や浦島太郎など、日本では不老不死は「かわいそう」なのではないかしら。自然であることが一番、という思想なのかもしれない。「死ぬことと見つけたり」死のうちに生を見る。桜の花か。戦時にもてはやされるわけだわ。日本人は、割合「引き際」にこだわる気がするが (盛りで引退するのを喜ぶ気風がありますよね)、海外ではどうなのでしょうね。

*1:不老不死の薬が見つかるわけはないのだけれど、徐福がたどりついた島は日本だった、という伝説が残っている。欧陽脩の「日本刀歌」にも、そうした記述がみられる。ちなみに、日本刀は美術品として中国では扱われた。