俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

会津秋まつり、藩公行列(帰る)

会津秋まつりのチラシ

まだ9/23のつづき。すみませんね〜。
藩公行列の様子が気になり、早めにお昼を切り上げ、14:45にお勘定。近くのバス停は、しばらく来そうにない。タクシーでも通らないかしら……って、来たーーー! 今回の旅は、乗り物運がいいですよ!
城に向かう道すがら、運転手さんが会津のことを話してくれる。「このあたり、もとはお屋敷町で道幅も2車線くらいはあったんだけども、今は狭くなりまして」へえ、そうなんですか。「火事があったら危ないから、類焼しないように道幅が広かったんですよ。そのお屋敷町も、戊辰で焼けてねえ、町が変わっちゃった」戊辰までさかのぼりますか!
「あ、あのへん、お客さんたちが行った西郷頼母邸の跡ですよ」「本当のお殿さまは、もっとお坊ちゃんだったと思いますねえ。坊ちゃんですよ」「薩摩はいいですけど、長州はだめです」運転手さんの主観なのか、土地の主観なのかわからないながらも、年のいった運転手さんの、柔らかな口吻にここちよくのせられる。人波が多くなってきたので、お城の手前で降ろしてもらった。さようなら〜。

予想に反して行列は帰城し、帰陣式が始まっているという。まだ15時前なのに、よほど途中で“まいた”んだろう。あわてて鶴ヶ城公園に入り、ステージ会場のはしっこで観覧。
ちょうど式が始まったところで、ほどなく大河出演者3名のあいさつが始まった。ここでも、口数の少ない同道者の分までしゃべり、場をおさめるのは山本土方。司会者があとをひきとり、
土方歳三役の山本耕史さんは、会津の親善大使をつとめられることになりました」
山本くーん! あなた役に入りすぎ!
あいさつが終わると、ここで大河の3名は退出。朝も早よから準備して、笑顔とお手ふりを3〜4時間、先人感謝祭の時間から起算すれば7時間。そりゃ疲れたでしょう、ゆっくり休んでくれよと、心の中で合掌。

帰陣式もだいたい観たし、せっかくなので、鶴ヶ城の内部を拝観。孝明天皇松平容保におくった「ご宸翰(しんかん)*1」と「御製」のホンモノが特別公開されていた。これ、松平容保公の忠義を愛でて、孝明天皇が信頼とお褒めのことばを下されたものなのだ*2*3

城から出て、お堀を通る。満々とした水と緑が美しいこのお堀は「内堀」で (これもタクシーの運転手さんから教わった)、外堀は今はない。お昼のビールが今ごろきいてきたのか、帰りのバスでは爆睡。JR会津若松駅に着いたのは16:50頃だったか。近在の飴屋さんや、駅併設のお土産館などを冷やかし、発車寸前の快速に飛び乗る。帰りの電車はこちら。
 ・会津若松17:31〜郡山18:29 JR快速あいづライナー6号
 ・郡山18:36〜東京20:04 JR新幹線やまびこ64号


どちらの電車も、非常によく眠った。ただし、郡山からの新幹線では、仙台の牛タン弁当を食す間だけ起きてましたね。ゆっくりとくぐもった会津なまりは耳にやさしく、山深い盆地の風景に心なごませた1日でした。

*1:天皇の直筆の手紙をいう。

*2:容保は宸翰の存在を、家族にも秘していた。家族はただ、容保がふだんから首にかけ、風呂に入るときすら離さなかった竹筒をいぶかしく思いつつも何も聞けず、容保が歿して初めて、その中身を知った。司馬遼太郎綱淵謙錠かの、昔のエッセイによれば、ふだんはどこぞの銀行金庫に厳重に保管されて眠っているとのこと。今はどうなのでしょうね。

*3:ちょっと寄り道、「松平家救助事件」。←「幕末リサーチ プロジェクトα」HPより。