俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

万博の誘惑

万博博覧会の美術展・チラシ

上野の博物館へ「万博博覧会の美術」展を観に行ってきたよ。
正式名称は「2005年日本国際博覧会開催記念展 世紀の祭典 万国博覧会の美術 〜パリ・ウィーン・シカゴ万博に見る東西の名品〜」。長い!

この展覧会の舞台は19世紀後半、「万博博覧会の時代」と呼ばれた時代です。この時代を西洋に驚きをもって迎えられた日本の工芸と、幾度か開かれたパリ万博博覧会を彩った西洋美術という二つの視点からご紹介いたします。…(略)…すさまじいまでのエネルギーに溢れた「19世紀の博覧会」の世界をご覧ください。
――「万博博覧会の美術」展・チラシより抜粋

日本(徳川幕府)が万博に初めて正式参加したのは、1867年のパリ万博が最初である。元号でいえば慶応3年、明治維新の1年前だ。このとき、薩摩藩佐賀藩も独自に出品し、幕府に対抗している。
将軍名代として、慶喜実弟水戸藩徳川昭武(あきたけ)が同年1月に渡仏。当時数えで14歳の少年だった昭武が西欧各国を訪問している間に、日本では鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争に突入する。報せを聞いた昭武が帰国した翌年11月には、すでに幕府は崩壊していた。すごい転変。

脱線を戻す。パリ万博以後も、日本(明治政府)はばりばりと出品する。当時の出品物を観ると、「日本的」というには、どことなく違和感のあるものが多い。装飾過剰な細工ものに大胆な意匠、彩色。一部は中国的ですらある。日光や京都の土産物屋で売っていそうな派手しさ。
そう、これらは外国人にウケそうな“ジャパンアート”なのだ。
折しも当時の西欧は、ジャポニズムが流行りだった。西欧人が好みそうな図案や配色を考え、出品し、買い手がつくのを待つ。展示品に蒔絵、七宝が多いのは、それだけ好まれたのだろうか。万博は市場でもあった。*1
ばかでかい花瓶や、置物以外に使い道のなさそうな七宝細工の大物太鼓がある。キャプションによれば、こうしたものも、日本のもつ技術を誇示し、興味をひくために制作されたものらしい。
外貨獲得。国威掲揚の時代。当時の日本のがんばりを感じた展示だった。東京での会期は7月6日(火)〜8月29日(日)まで。申し遅れましたが、写真は同展覧会のチラシです。

帰り道、谷中方面をぶらぶらする。夕方なので、陽もやわらぎ風もすずしい。犬の散歩タイムらしく、犬連れの方々とすれちがう。適当に歩いていたら、谷中霊園に出た。さてこれからどうするか、と、暮れ六つの鐘が聞こえてきた。おとなしく帰ることにする。夜八時からは、大河だしね。

*1:別の面として、万博は見世物興行的な側面もあった。今でいえば、遊園地、テーマパークのような娯楽を提供する場でもあったようです。