俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

抑圧のはなし

テネシー・ウィリアムズ脚本・松尾スズキ演出の芝居「欲望という名の電車」と、カンヌ・パルムドール受賞のオーストリア映画白いリボン」を観てきた。どちらも暗くてどうしようもなくて、かつ刺戟的。
欲望という名の電車」は、ちょう有名作だけに、あらあらすじだけは知っていて、でも観たことはない。今回、松尾さんの演出で秋山奈津子さんがブランチと知り、いい機会だからチケットとってみました。いやー、……予想以上に容赦のない脚本ですね。「あれでしょー、ブランチっつー女の元旦那がゲイで、いまだにそれに囚われていて、そんで妹夫婦のところに厄介になるんだけど、あれでしょ、妹の荒くれ者の旦那と最後なんかあるんでしょー、そんで杉村春子なんでしょー」という、しょーもない考えで観に行って、ほんとすみません。謝る。ブランチがかわいそうで、かわいそうで泣けた。
映画「白いリボン」は、第一次大戦直前の北ドイツの寒村が舞台。監督はミヒャエル・ハネケ。こちらも淡々と容赦のない映画です。両方に共通するのは「抑圧」。禁欲、秩序、躾という名の暴力、「お前のためを思って」、親の持ち物である子ども、男の持ち物である女、それにすがる女、性の問題。彼らはどのように自らを「抑圧」するものへ対抗したか。

抑圧し、われを虐げる頭上のものに対し、二つの方法があるだろう。一つは「同化」、一つは「反抗」である。

ブランチは反抗した。ゲリラ活動といってもいいかもしれぬ。意外とこのひと、人目を気にしないよね。美少年に恋して駆け落ちのあげく結婚、結婚がやぶれたら代わりの男を探す、なんつーか素直。そこを男どもに足もと見られて、尻軽女扱いされるのが悲しいのよ。
ブランチの反抗が力をもたず、ゲリラ的だというのは、彼女自身が抑圧者に対して「同化」を願っているから。同化って、一番かんたんよ。あれ? と思っても、「そうですわね」と同じ立ち位置でものを言ってすませるのが、一番かんたんじゃない、無難で。そう言っておいて「いい子いい子」されるのが、何も考えずにすんで楽。
彼女のした反抗に、大人社会のおめこぼしはなかった。なぜなら、彼女自身が「もう大人」になっていたからだ。大人には、子どものような逃げ道はない。自分がしたことの落とし前をつけなくてはならない。私は、ブランチの最後の台詞もさることながら、妹ステラへの衝動的告白が忘れられない。「私――強い女にはなれなかった!」

映画「白いリボン」の感想まで、なかなか書けないですね。いずれ後日。

欲望という名の電車PARCO劇場

原作脚本:テネシー・ウィリアムズ
翻訳:小田島恒志
演出:松尾スズキ
出演:ブランチ:秋山菜津子 スタンリー:池内博之 ステラ:鈴木砂羽 ミッチ:オクイシュージ
猫背 椿 村杉蝉之介 顔田顔彦 河井克夫 小林麻子 桔川友嘉 井上 尚

4/17(日)14:00開演、於・渋谷PARCO劇場。二部構成で、上演時間は約3時間 (休憩15分含む)。
主な感想は、上のほうで述べちゃった。なので以下は蛇足の補足です。

欲望という名の電車」は、外国脚本の超・有名作。脚本を書いたテネシー・ウィリアムズは南部出身者で、本舞台の初演は1947年、NYで行われた。1951年、ブランチをヴィヴィアン・リー、スタンリーをマーロン・ブランドで映画化されている。
1947年初演(日本敗戦の2年後)とは思えないほど、古びてない。いや、社会状況とか当時の服装とか、もちろん今とは違うんだけれど、根っこは変わってないなーと思わせられた。女は、経済的に潤ってないと、まじで社会的立場弱いよ。「女のほうが得」だとか「女のほうが生きやすい」とか、そんなん条件付きの幻想だから。優しい父親とか旦那とかに守ってもらえる人の台詞だと思う。
寡婦に対する見方もねえ。泣けた。寡婦でなくとも、昔、離婚した女性が「男が妙に寄ってくるけど、ほとんどが不倫か遊び目的のやっすいの!」と怒っていたことが思い出される。なんつうの? 「生娘じゃないんだから……わかるだろ?」ってやつ? ほんっと腹たつのりだよ。

さて、舞台に戻りましょう。
欲望という名の電車」というタイトル、本当にその名の電車が実在したとは知りませんでした。検索したところによると、舞台となったニューオーリンズの高級住宅街の名が「欲望(Desire)」で、ブランチの妹夫婦の住む労働者階級の下町が「天国 (Elysian Fields)」。欲望と天国をつなぐ路面電車の「欲望行き」に乗り、「墓場」という電車に乗り換えて、ブランチはこの地に降り立ったわけです。
ブランチ役の秋山菜津子さんはさすがで、3時間飽きさせない。妹のステラ役・鈴木砂羽さんの舞台を観るのは初めてだが (大河ドラマ新選組!」での彼女はよかったですね〜)、こちらもようございました。
ミッチ役のオクイシュージさんは、以前サモアリの「洞海湾 -九州任侠外伝-」で観たっけ。彼もよかった! 最初は「ん、弱いかな」と思ったけれど、中盤以降の彼はいいねー。
松尾さんの演出は、選曲と映像がいい感じ。「キャバレー」とちがい、今回は訳された脚本を忠実に使っているようですね。とはいえ、台詞回しに松尾節が垣間見えます。
脚本のト書きに指示があるのか不明だけれど、ブランチの服装が、最初は年相応の社会人ワンピースだったのに、舞台が進むにつれて、だんだんと幼くなっていくのがよかった。屈託のない、未来に希望あふれる少女時代に戻りたかったんだなあ。束の間でも夢見たかったんだなあ。
なお、ブランチを理解するには「南部美人 (サザン・ベル)」という語が一つのキーワードになるかもしれない。以下、今回の戯曲翻訳をされた小田島恒志さんの「上演翻訳におけるジェンダー意識」(PDF書類) が面白かったので、リンクしておきます。
小田島恒志「上演翻訳におけるジェンダー意識」(PDF)

白いリボン飯田橋ギンレイホール

こちらも、上でおおかたの感想述べちゃった。なぜこの映画を観に行こうと思ったか、そして映画自体の補足を少しだけ追加します。
もともと、この映画に興味を持ったのは、以下のブログの記事を読んだのがきっかけです。
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2011/03/post_4361-1.html
この映画「白いリボン」紹介記事の多くでは、ドイツがナチズム擡頭を許した理由の一端が描かれている、とありますが、もちろんその要素は大きかれど、やはりこちらも、現代に通ずる内容だと思うのですね。
要するに、悲しいかな人間は容易に変わらない。淡々と描かれているけれど、重い内容です。残酷なシーンはほとんどないし、暗示させるだけなのに、つらい。
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父の牧師に責められるマルティンの流した涙が、もうね……。私は絶望の涙と読みました。本来、愛されるべき親から「躾」の名を借りて、不当な罰を与えられる。親に愛されようと努力しても、マルティンの姉のようにその成果が評価されず、無実の罪で罰せられます。親が子どものことを、まったく見ていないんですね。
虐げられた者たちは、どう対抗するか。反抗のゲリラ活動か、強者との同化、おもねりになります。
私は、ドクターの娘・アンナがかわいそうで。まだ14歳なのに。彼女の今後が、長塚圭史の芝居「sisters」で予想できるだけにつらい (「sisters」の感想記事は id:orenade:20080726#p1)。
そして、アンナと小さな弟は、ドクターやカリーと一緒に、もう地上にはいないかもしれない。ドクターに捨てられた助産婦は、王女メディアと同じ行為をしたのではないかしら。
あと、男爵(領主)の妻がイタリア人で、夫に別れを申し出るところが、個人的に面白かった。英国作家のフォースター作品でも思ったけれど、北ヨーロッパの南に対する憧れってすごいのねえ。特にイタリア。イタリアに行くと皆、一様に人間性を取り戻しちゃったりして、なんかすごい。今回も、イタリア妻が夫と村に嫌気がさして実家に里帰りし、そこでちゃっかり次の恋愛対象を見つけているんですよー。イタリアがもう、自由と人間性のアイコンになってますね!
まじめな話に戻すと、フィルムのラスト。教会で、当然今まで祭壇に昇っていた牧師が、聴衆と同じ長椅子に着席します。だれが祭壇にいるのかは分からない。ここに権力の交代が視覚のみで語られる。取って代わったのが何者であるかは不明だ。それは、時代時代で変わるものなのだろう。