俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

とりとめもなく

週明けからこちら、戯曲「ドラクル」・長塚圭史インタビュー掲載の「文学界 2007年 10月号 [雑誌]」、仁賀克雄『ドラキュラ誕生 (講談社現代新書)』、澁澤龍彦異端の肖像 河出文庫』、森島恒雄『魔女狩り (岩波新書)』に、別系統だが福岡伸一生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)』を読む。長い安いと文句をつけたが、どうやら自分は「ドラクル」を気に入っているようだ。ゴシック調と、ださいところが後を引く。
でも、作品としては、やっぱり甘いと思う。
吉原手引草』で、今年度上半期の直木賞をとった松井今朝子さんのHPに、「ドラクル」劇評が書かれていた。ばっさり斬っておられるが、的確。ここまで書いてくれたのは、むしろ優しさだと思う。
松井さんがご覧になった圭史の作品は「アジアの女」と「ドラクル」のみ (松井さんのHPにて、「アジアの女」は2006年9月28日付、「ドラクル」は2007年9月7日付の日記に感想が書かれております)。この2本では、辛口もしかたがないよね。個人的には、名作「はたらくおとこ」もありますよと弁護したいところだけれど、それを踏まえても、松井さんの指摘は圭史の問題点をずばり突いている。
圭史の作品は、ひらめきに頼りすぎているのだ。つきつめて考える作業が足りない。もう30を過ぎ、コクーン・サイズまで来たのに、思考過程がスズナリのままではないかしら。「アジアの女」や「悪魔の唄」など、先に結論ありきで、しかし結論にいたる道筋を消化できないまま、ポンと唐突な台詞で解決をはかる。核をはっきり捉えられないままに進むから、すべてが曖昧になる。言いたいことはなんとなくわかるけれど、結局それは、「なんとなく」でしかない。ここを乗り越えないと、才能の行き止まりでしょうね。いいものをもっているのだから、圭史にはがんばってほしいです。
今回の「ドラクル」は、神、人間、赦しが主題かと思うが、それらをつなぐ糸がばらばらだった。全部ことばで説明せい、というのではない。全体から浮き上がる何か、台詞でも演出でもいい、何らかですべてが一つにつながるような、核芯がつかめなかった。台詞が上すべりに聞こえてしまう。
比較するのは酷だけれど、遠藤周作『沈黙』の神の声や、有島武郎『惜みなく愛は奪う』(これは小説ではないけれど、題名がすごい) くらいに、考えに考えた作品を待ってます。

ところで、山本亨さん演じる「ジョン・ジョージ」の典拠を発見。先に挙げた書籍『ドラキュラ誕生』に載っています。ジョン・ジョージ。“ロンドンの吸血鬼”“20世紀の吸血鬼”と呼ばれた、ジョン・ジョージ・ヘイから、名前を引っ張ってきたもよう。金銭目的で9人もの殺人を犯すが、その際にコップ1杯の血を飲んだと告白。昔から血を飲む幻想にとりつかれていたと言うが、精神異常を装って減刑を狙ったものなのか、実際に飲んだのか嘘なのかは不明。
それと、「読売新聞」2007年9月12日付の「ドラクル」演劇評

……副題に「GOD FEARING DRACUL(ドラクルを恐れている神)」とあるが、これは悪魔の存在によって神の存在を証明する、という意味の司教の言葉に由来するのだろうか。……
──「読売新聞」2007年9月12日付記事

“God-fearing“=神を恐れる、信心深い(研究社『新英和大辞典』)ですので、「GOD FEARING DRACUL」を訳すならば、神を恐れる悪魔、敬虔な悪魔かと思われます。意味反対。ネット辞書でも、すぐ調べられますよ。私も最初、誤読しましたけれどね。誤読を狙ったタイトルなのかも。辞典にあたるのも大切ね。