俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

ざらりとした感触

天皇誕生日が過ぎると、年末感がようやく漂ってきますな。
2015年最後の土曜日、理髪してお昼食べて、年賀状の宛名書いて (本文まで書く時間なかった)、日用品買って鯛焼き食べて、それから渋谷に出かけました。年末の渋谷は、どこも人でみっちりと埋まっており、息苦しかったです。

長塚圭史作・演出「ツインズ」@渋谷PARCO劇場

【作・演出】長塚圭史
【出演】
古田新太 多部未華子 りょう 石橋けい 葉山奨之
中山祐一朗 吉田鋼太郎

12/26(土) 19:00開演、於・渋谷PARCO劇場。上演時間は2時間。
作・演出の長塚圭史は、現在放送中の朝ドラ「あさが来た」で、サトシ役をやった人です。朝ドラ出演は2回目ですね〜、2009年〜2010年放送の徳島を舞台にした「ウェルかめ」で、朝ドラなのに妙な気色悪さを発していて「さすが圭史!」と大笑いした記憶があります。
それはさておき。
思えば、圭史の作・演出舞台を初めて観たのは、このPARCO劇場で2002年公演の「マイ・ロックンロール・スター」だったなあ。以降、全部の舞台を観たわけではないけれど、そこそこ観てはいると思う。いろんな人が言っているし、パンフレットにも書かれているけど、圭史は「家族」にこだわりがあるのね。血のつながりを基盤とする集合体で、「血がつながっている」「親戚である」それだけで馴れ馴れしくなったり、許せなくなったりする。家族ではないけれど、「悪魔の唄」では日本人と国家を捉えようとして失敗(と私は思っている)してますが、これも「血のつながりを基盤とする集合体」の一形態のような気がします。
「同じ血が流れている」だから? なんで? どうして? と繰り返し考えているのではないでしょうか。たとえば、外国で日本語が聞こえてきたときの感情。同国人を見つけたときの親しみと反発。
たとえば、優しいと思っていたその同国人に裏があったら? 家族関係でも同じことです。圭史が描きたいのは、そういうことかなと思いました。「同じ血が流れている」それだけで、なにかしら発生してしまう感情。

今回の舞台は、海辺の一軒家に、親戚一同が集まる話です。死にかけの祖父、仲の悪い親世代の兄弟、その娘、姿を消した姉の息子、その息子より一回り以上年上の女が産んだ双子の赤児。遠い親戚の男。そこにただ一人、他人が混じる。住み込みの看護師として祖父の面倒を看る女です。
この他人の女が、いわば「鏡」の役割を果たします。女は、誰の言うことも否定しない。すべてを諾い、ゆえに何が本当か分からない。
なにが本当か分からない、というのは演出上もそう。「青い海」と台詞を発した背後には、灰色に塗られた海の書割がある。兄役の吉田鋼太郎が、弟役の古田新太に向かい「兄さん、兄さん!」と叫ぶ。
舞台が進むにつれて、どうやら日本は被爆したらしく (おそらく5月のこと)、気の利いた人は日本脱出を果たしている。海辺の一軒家に集まった人々は「残された者」の側面をもつが、注意したいのは、この舞台は原子力被爆に対するメッセージが主ではないこと。それはあくまでも従であり、暗喩でもある。手の施しようがない、あらかたが逃げ出したような終末の地で、「血がつながっている」それだけで集まった人々はどうするのか。
自治体が機能しなくなった町で、送電が途絶える。いや、もしくはとっくに発電所自体が止まっていたのかもしれない。
17時半、電気の灯りではない真の夕暮れの光に照らされた食卓で、仲よく膳を囲む「家族」たち。ただ一人、他人の女は食卓を離れ「家の外」に出て、海に還った者たちと見つめあう――。
ざらりとした舞台でした。圭史は観る人を選ぶ舞台を作るよなあ。