俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

命の水

三谷幸喜生誕50周年・大感謝祭の最後を飾る作品を観てきました。だって、作演出が三谷さんで、出演が西村雅彦さん・近藤芳正さんのガチンコなんだよ〜! 「笑の大学」再びだよ……!
と思っていったら、梯子をはずされました。どうしちゃったの三谷さん。
同行者とお茶しながら感想を言い合い、いったん帰宅してから再度外出。趣味の楽器の個人レッスン、21時から22時までがんばってきたよ。

PARCOプロデュース「90ミニッツ」

作・演出 三谷幸喜
出演 西村雅彦 近藤芳正

12/18 (日) 14:00開演、於・渋谷PARCO劇場。上演時間はタイトル通り、休憩なし。本日のタイトルは、芝居の演出にからめております。
久しぶりに西村さんと近藤さんを拝見しました。えっとあの、西村さん、老けた……? 年齢が如実に体型に現れとる! 役柄もあり、さらに老け度UPの近藤さんが遅れて登場。「笑の大学」から15年だもの、そうかそうよね……。
西村さんの台詞回しが、ちょっと気になりました。滑舌のいい人ではないからしかたないけど、少々もっちゃり。話が進むにつれて気にならなくなったけれど、冒頭は、ややクセのある発声が目立って聞こえたです。

さて、今回のテーマは「倫理」だそうで。
事前情報は何も入れず、「笑の大学」と似たようなものを期待して行ったので、正直戸惑いました。
三谷さんさ〜、「笑の大学」のとき、自分は「笑い」をテーマにして書いたので、検閲とか国家とか関係ない、純粋に笑いを突き詰めたかったんだ!と屁理屈いってたわりに、今回はストレートですね。な、なにがあったの?
彼なりに、時代の空気を感じて、何か書きたいと思ったのでしょうか。村上春樹の『1Q84』でも読んだのか?(って、私、『1Q84』読んでないけどなんとなく)
宗教は絡めないけど、その代わりに日本の因習、右にならえ、村八分といったマイナス面を持ってきました。でもさー……、三谷さん東京出身で、そういう地方の、なんか黒ーいトグロを巻いたような、相互監視社会は知らないのでは。近藤さんからは、地域社会にどっぷり足を絡めとられた男の影は、あまり感じられませんでした。そのへんにいる小心者、という点では、よく描けていましたが。
今回、西村さんにも近藤さんにも、どちらにも感情移入できなかったのがつらかったなあ。特に、近藤さん演じる父親には、まったく同情できなかった。私、ああいう小市民で「すみません」を連呼するわりに、ほんとは悪いと思ってないタイプきらいなんですよ! 謝ることで相手を申し訳ない気分にさせて、結局自分の思う方向に操るタイプですよね〜ああイヤだ。まんまと乗せられおってからに、西村さんの医者は。私があの医者だったら、電話してないね。そんな自分が冷たい人間だって分かっちゃったよもう。

90分と短い間にも、親子の愛情、医者の仁など、見るべき問題提起がされております。
「1時間前には知らなかった、縁もゆかりもない子供と、自分が目指して営々と積み上げてきた30年とが引き換えられるか!」という意の台詞がありますが、私はだからこそ、なげうつことができたのかもな……と思いました。人間とは、時に無性に、利他的行為をします。3・11の震災のあとだから、そう思うのかもしれませんが、相手がまるで知らない子供だから、西村さんの医者は、純粋な思いで電話をかけることができたのかも。これが下手に知っている相手だと、わかんないよ〜?(ああまた私のブラック部分が……)

近藤さんの父親は、親のエゴがばっちり出てましたね。あれ、「自分の子供」だからこそ、承諾書にサインできなかったんだと思う。もし同じ集落の、別の子供が同じ目に遭っていたら「サインしてやったらいいじゃないか」とか言ってそう。この手合は、自分に火の粉がかかってこなければ言うね!(偏見100パーセント)
子供の意思確認を問うやりとり(子供の真意は最後まで明かされない9で、近藤さんの父親が自己流に解釈して「それでこそ俺の息子……!」と一人感動する場面があります。たとえ死んでも地域の風習を守った、誉め讃えられるべき子供、引いては、その子をそのように育てた親も誉め讃えられるべき存在、地域の誉れ、なのですね。
本人も認めていたけれど、自分や子供の生死よりも、他者の目(世間様)が気になるわけです。だって、世間様にそっぽ向かれたら、きっと生きていけないから。
父親のいう「輸血して生還できたとして、その後は? 地域の目に耐えて、教えに背いた自己存在にも耐えなければならないんですよ!」というのも、一理ある。父親は、それ以上戦うのを諦めてるんですね。それはまあ、しかたないと思う。だって面倒だものいろいろと。親だったら全員、戦うべきとは思わない。戦えない人はいるんです。戦ったはいいけど、途中で逃亡(離婚とか)しちゃう人もいるだろうしね。
親のエゴでいうと、子供が事故に遭ってからの連絡がよすぎて、手術をすれば助かるというのを、地域の風習に反するというので「連絡がよすぎたんですよね……そうでなければ、思い悩まずに済んだ」みたいなことを、父親が言うんですよ。要は、連絡が遅ければ「手遅れ」で、自分が悩む必要はなかったと、ここでは、子供は「厄介者」扱いです。しかし、子供の発言の真偽で「それでこそ俺の息子」と感動する場面は、子供と自己を同一視して、持ち上げてますよね。親も人の子、自分に都合のいい、かわいい子供がいいわけです。このへん、リアルだったわ〜。

そんなこんなで、近藤さんの父親は、その思考回路は納得できるんですよ。親子の情愛が一番とは思っていないもので。ただ、そこから生じる葛藤(だれしも、いい親と思われたいし、子供の命が助かったほうがいい)を、医者の西村さんにぶつけるのが許せないんだよ! 他者をまきこむなっつーの!
あと最後、「一生、3秒遅れたという荷物を背負う」(うろ覚え) という父親の台詞。あの、生まれ変わりを信じてるんだから、ここでは死んでたほうがよかったのでは……? その矛盾も、また親だからでしょうか。ま、本当は信じてないんでしょうね〜。

個人的に好きな台詞は、「9歳なら救うべき未来ある子供で、90の老人ならもう十分生きた、もういいでしょうと言えるのか、9歳と90歳で命の軽重がどう違うのか」。これまたうろ覚えですが、そうだよね、と思いました。
今回の観劇は、三谷さんのネタ帳を見せられた感じ。なにが言いたかったのかなあ。