俺はなでしこ

 はてなダイアリーから、2018年12月に引越してきました

肉筆の文は人なり

大学の先生の、定年退職による最終講義を聴きに行く。
ご専門は、日本近代文学である。主に明治期で、二葉亭四迷島崎藤村などに造詣が深くていらっしゃる。大学在籍は29年間。わずかながら、そのうちの何年かをご指導いただいたのだなあ。大学構内に入るのも久しぶりだ。会場の教室では、懐かしい顔ぶれの先生がたを望見できて興奮。皆さまお元気そうで、何より。

最終講義の演目は「文学者からの手紙」。
明治期からさかのぼり、文学者の肉筆の手紙をご覧になっている最中とのことで、手紙から浮かびあがる文体、および親疎の関係を述べられた講義だった。さわりだけご紹介する。
・明治大正の手紙は「候文」が主流だった
・いわゆる「大新聞」も、大正9年頃までは「候文」の紙面
・しかし小説だけが、30年以上もさきがけて、言文一致体を始めていた(二葉亭四迷浮雲」の発表は明治20〜22年)
言文一致の小説家も、手紙類は候文だったが、それだけ当時は「候文」が当たり前だった。しかし、なかには言文一致で送られた手紙もある。候文と言文一致体の文章の間から、浮かび上がる諸々について述べてくださった。
15〜16時の予定が大幅に過ぎて、終わったのは16時55分近く。ほぼ1時間押しである。後半はPowerPointで写真を映しだしながら、終わるのを惜しむように、楽しそうに講義されていた。明治期の作家でも例外的に、漱石は言文一致体の手紙が多いそうです。堅い方面には候文でも、親友の子規や弟子なんぞには言文一致だったらしいよ。料亭の女将にも「候文は意味が伝わりにくいからいけない、言文一致にしなさい、言わんとすることや感情がすっと入る」と薦めた手紙があるそう。個人的には、石川啄木のはがきが面白かった。下手くそな字なんだけど、味があるのね。女学校に行っている妹に宛てて、
兄さんは御病気で
 昨日から御入院だ
(病院の住所)
これだけ。啄木は他にも「おまえの着物は質に入れてもうない」とか、あっけらかんとした手紙を送っているそうだ。さすが啄木。しかし、金銭的な援助をされていた金田一京助*1には、最初はふざけた言文一致でも、後年は候文の手紙になったというあたり、よーくわかりますねえ。
別の用事が控えていたため、友達にろくろく別れも告げず、講義終了とともにダッシュ。どうも失礼しました。

*1:金田一と啄木は同郷。金田一は文学者を志すも挫折したクチで、新妻の着物を質に入れてまでも啄木を援助していた。遊び人の啄木はそのお金を踏み倒し。金田一の息子・春彦のエッセイで「あんな悪人はいない、私はだれがなんといおうと啄木が嫌いだ」と、なじっていたのに仰天したことがある。